正月。 朝いちばんの水は主が汲み、 その水で湯を沸かす。 それはずっと守られてきた。
ことほど左様に、 父は家の主としてやらねばならぬことは、 いつもきちんとやっていた。 さらに七草とか小豆粥とか七夕、 お月見といった家庭で行う行事をおろそかにしなかった。 遊びでも文字が読めるようになると百人一首を必ずやった。
また、 父はよく本を読む人でもあった。 家には世界や日本の文学全集がずらりと揃っていた。 当時の本は漢字にはルビが振ってあったので、 意味はわからなくても読むことができた。 誕生日のお祝いは本と決まっていた。 当時講談社から出ていた絵本で、 絵も美しいし見ていて楽しいものであった。
小学四年生の頃、 惹き付けられたのは吉川英治の 『宮本武蔵』 だった。 表紙が藍色で八巻だった。 時々食事のあとで登場人物や出来事について話した記憶がある。 暴れ者のたけぞうが沢庵和尚に大杉につるされたこと、 池田の殿様の天守の一間に幽閉されて、 部屋で読書一筋に暮したこと、 奈良の宝蔵院の僧たちと無頼者を退治したこと、 おすぎばあさんや又八、 お通さんのこと等々。
やがて新国劇で芝居をかけていて、 今でも観に行ったことが頭の隅に残っている。 小舟に乗って現れた武蔵が刀のサヤを投げ捨てた佐々木小次郎に向かって 「小次郎敗れたり」 と木刀を小次郎の頭上に振り下ろしたときのことなどが鮮かに残っている。
父はよく私たち姉弟をピクニックにも連れて行ってくれた。 山の谷川のような所へ行くときには飯ごう炊飯で母も出かけたものだ。 母の女学校時代の梨の皮むき競争の話は面白かった。 橋の上に並んで梨の皮をむくのだそうで、 水面に皮が届くような人が一番だったそうな。 母は大抵水面まで届いたといっていた。 左様に母は器用な人で、 私たち子どものセーターなどは全て編んでくれた。 鉛筆も包丁できれいに削ってくれた。 父は勉強をよくみてくれた。
一家団らんの時は茶の間で過ごした。 その席では父母の昔話をよく聞かされた。 記憶に残っているのは、 シナの人たちは 「ニーデチーハンワンラマ」 という挨拶を交わしていたという。 ご飯を食べましたかというような意味のようだった。
また関東大震災の時の話もよく聞いた。 みんなで竹薮へ避難し、 そこから見たという様子を話してくれた。 道路がぱくんと割れて、 また閉じたとき、 泥がぶわーっと吹き出したというような泥流化のことや、 余震が幾晩も続いたという現実味に溢れた話だった。
このように父母の慈愛にみちた日々が今日の私を形成してきてくれたのである。 溺愛でなく、 ときには冷たく見つめてもくれた。 生きるための道標を子どもに示しながら、 懸命に明治・大正・昭和を生きて子育ての使命をはたしてくれたように思うのである。
(静岡市)